明智光秀について

戦国乱世において、天下統一を目前とした織田信長を襲った「本能寺の変」。この首謀者として有名な戦国武将・明智光秀は、しばしば謀反の側面から語られますが、どのような生涯を送った人物であったのかご存知でしょうか。実は、光秀の前半生に関する史料はほとんど残されておらず、どのような活動をしていたのかは謎に包まれています。歴史の表舞台に登場するようになるのは、信長が足利義昭を奉じて上洛した時分からです。信長へ仕えるようになった光秀は、信長による天下統一への方策や領内の統治などに携わるようになり、家臣団の中で出世をとげました。そのような光秀の足跡は、岐阜・滋賀・京都の各地に残されており、光秀の謎を探るヒントが隠されているかもしれません。

岐阜県と光秀

光秀は、美濃国(現在の岐阜県南部)で生まれたと言われています。しかし出生については諸説あり、岐阜県可児市、恵那市、瑞浪市、大垣市、山県市に光秀出生の伝承が残されています。他にも、光秀が仕えた斎藤道三・織田信長が拠点とした岐阜市、光秀の妻・熙子ゆかりの土岐市、光秀に仕えた可児才蔵出生の地である御嵩町などゆかりの地が点在しています。岐阜県に数多く残るゆかりの地や伝承が、光秀が謎に包まれた人物であることを物語っています。

大津市と光秀

比叡山の麓に位置する坂本には、明智光秀一族の菩提寺として知られる西教寺があります。ここには、身分に分け隔てなく戦死した部下のために供養米を寄進した光秀直筆の文書が残されており、光秀の温情な一面が窺えます。また、境内には妻・熙子の墓所があります。当時、戦国武将は妻の葬儀に参列しないことが慣わしでしたが、光秀は熙子の葬儀に参列したという逸話が住職により語り継がれており、光秀の愛妻家な一面を知ることができます。

亀岡市と光秀

戦国乱世の中、明智光秀は天正3(1575)年に織田信長から丹波(現在の京都府中部及び兵庫県の一部)へ進攻するよう命じられ、この丹波の地・亀山(亀岡)にやって来ました。
その後、丹波進攻の拠点として、丹波亀山城とその城下町の礎を築いたほか、本能寺の変の際は、この地から出陣しました。
まさに、光秀が人生の最期まで過ごし、自らの理想を描いたまちがこの亀岡です。

福知山市と光秀

福知山には丹波を平定した明智光秀によって西国攻略に向けた拠点のひとつとして築かれた福知山城があります。丹波の山々に囲まれた盆地に立地し、丘陵を巧に利用した近世城郭として整備されました。また、光秀は西国侵略への要衝となる福知山を発展させるため、治水対策や地子銭(宅地税)を免除し現在に至る福知山の発展の基礎を築いた人物として、今でも福知山市民に慕われています。

明智光秀を取り巻く人々

※家系図には諸説あります